澤田 哲郎

プロフィール
澤田哲郎・さわだてつろう(1919-1986)

盛岡市生まれ。盛岡中学を経て黒沢尻中卒。文化学院、川端画学校で絵を学び、藤田嗣治に師事。 戦後シベリア抑留を経て帰国。アメリカで個展を開催し、評価を受ける。

昭和61年、病魔に侵され、66歳で世を去った澤田哲郎のアトリエには、 膨大な作品と、きれいに下塗りされた200枚のキャンバスが残され、 壁には「三万マイ」と大きく墨書きされていました。 3万6千5百枚―。 1日1枚、100年絵を描きつづけたことになるこの数字が澤田の目標。 北斎に心酔し、「絵描きも職人」との持論から、 自ら1日1枚のノルマを課して制作に取り組んでいました。 級友には抜群の運動神経と腕っぷしの強さで記憶されていた、 豪放な外見のイメージとは裏腹に、澤田の作品は繊細で、どことなく哀愁が漂います。 道化師や馬、犬、鳥などの描かれた生き物たちには深い慈しみの目が注がれ、 見る者を温かい思いで満たすようです。

小学生の時に自己流で油絵を書き始めていた澤田は、中学卒業後上京。 文化学院などに学び、澤田の中学時代に早くもその画才を認めた同郷の詩人、 加藤健の紹介で藤田嗣治に師事し、生涯尊敬しました。 澤田は画壇ではアウトサイダー的な存在で、無所属を通しましたが、 初期には二科展に出品して会友になり、 同じ頃二科の会友だった松本竣介との交友でも知られています。 竣介は澤田よりも7歳年上で盛岡中学の先輩でもあり、 昭和17年には盛岡で彫刻家舟越保武も加わっての3人展を開き、 互いの作品にも影響しあったと考えられます。

澤田の画業は大きく3つの時期に分けられます。 初期から終戦直後シベリア抑留を経て帰国した頃にかけての乞食や貧しい人々、 飢えた犬、ロシアの情景を描いた時代。 次は昭和30年代、在日アメリカ軍の推薦を得てニューヨークでの個展開催により認められ、 ニューヨークを舞台に独自の抽象作品で活躍した時代。 当時の大作が日本ではなく、ニューヨーク近代美術館をはじめとするアメリカ各地に収蔵されているのも、 澤田らしいといえるかもしれません。 そして晩年、再び具象に立ち返り、小さなサムホールを中心に幻想的な作品を描いた時代。 毎日日記のように描き続けた凝縮された世界は、その小ささを感じさせず、 描きためていたサムホールを大作に発展させていく仕事が続くはずでした。 死後遺族によって編まれた追想録には、豪放な半面、人みしりするところがあり、 ロマンチストで、気ままで、いつまでもやんちゃな少年のようだったという、 自由に生きた画家の姿があらわれています。




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