萬 鐵五郎

プロフィール
萬鐵五郎・よろずてつごろう(1885-1927)

岩手県十二ケ村(現東和町土沢)生まれ。市立早稲田中、東京美術学校西洋画科卒。 アブサント会、フュウザン会に参加。二科展、院展などのほか、岩手の洋画団体である七光社展、 北虹会展に出品。春陽会、円鳥会に参加。日本の前衛美術の先駆者。

岩手県十二ケ村(現東和町土沢)の資産家の家の長男に生まれた萬は、 祖父の溺愛を受け、何不自由ない少年時代を送りました。 幼い頃から絵を好み、初め水墨画を、また16歳の時に大下藤次郎の手引書によって、 水彩画を独学で始めました。 祖父の死後、明治36年上京。 早稲田中学卒業後、明治39年、通っていた禅道場の布教活動の一行を追って渡米。 アメリカの美術学校で教育を受けたいという希望があったようですが果たせず、 短期間ボーイとして働いた後帰国。 明治40年、東京美術学校に入学し、そして卒業制作の「裸体美人」。 教授陣や官展系画家には認められませんでしたが、若い画家たちには大いに歓迎され、 こうした傾向は生涯続くことになります。 同じ年、彼は近代日本絵画に新時代をもたらした画家のグループ「フュウザン会」に加わり、 フランスのフォーヴ風の強烈な色彩と大胆な筆触による自身の近代的な画風を展開させました。

大正3年から絵画制作に専念するため、家族を連れて故郷に帰り、新しい方向へと進みました。 色彩は多彩からモノクロームへと変化し、 キュビスムのような多視点による形態のデフォルメが明らかになってゆきます。 郷里土沢という美術動向とは無縁の地で隔絶した状況に身を置き、 キュビスム的実験を試みた、この集中的な実験の時代の後、再び上京。 大正6年からはあふれんばかりの作品制作を行い、同年の「日本美術家協会」展に土沢で制作した作品を、 また二科会展には萬の主要なキュビスムの仕事である「もたれて立つ人」を出品。 一部に高い評価を受けながら、それは決して“売れる絵”ではありませんでした。

萬は神経症から大正8年、神奈川県茅ヶ崎に転居します。 まもなく画風が変化し始め、関心も次第に日本の伝統絵画に向かいました。 油彩画のほかに日本の南画を描き、伝統美術の解釈は彼の洋画にも反映しました。 若手の前衛の教祖的存在でもありましたが、作品は売れず、昭和2年、41歳のとき結核で肺炎を併発して自宅で死去。 彼の短い生涯の間に、西洋の新しい美術運動、後期印象派、フォーヴィスム、 キュビスムが日本に紹介され、若い画家たちに影響を与えました。 しかし萬はそれを模倣することには満足せず、西洋の新しい絵画の傾向を実験して吸収し、 彼の内面を具現した自身の絵画を確立しました。

死亡当時は美術雑誌や地元新聞がこぞって特集記事を載せ、郷里でも展覧会が開かれましたが、 その後戦争の混乱などでしばらくは忘れられていました。 しかし、昭和45年に盛岡で「萬鐵五郎特別記念展」が開催されると、 再評価の動きが活発になり、現在、萬の作品は岩手県立美術館の所蔵作品の柱となっています。 また、郷里の土沢には記念館が建てられ、郷土の画家として広く知られるようになりました。

【関連項目】
東和町ホームページ (http://www.michinoku.ne.jp/~towa/)
観光リゾート情報の中に萬鐵五郎記念美術館のコーナーがあります




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