プロフィール 萩原吉二・はぎわらきちじ(1914-1957) 青森市生まれ。表具師の傍ら油絵、木版画を制作。七光社展に出品。 1944年国画会展初入選。1947年同会会友、日本版画協会会員。新制美術会会員。 |
青森市で生まれ、盛岡で育った萩原吉二は、小学校卒業後家業を継いで表具の仕事を始め、
その傍ら好きな絵を独学で描くようになります。
20歳頃には盛岡の洋画団体「七光社」に所属して七光社展に風景画などを出品。
木版画の制作を始めたのもこの頃で、
経済的にあまり負担にならないことも始めた動機の一つであったようです。
道具や紙にはこだわらず、2、3枚すると版木は割ったり焼いたり、
さらに別の版を彫ることもあったといい、多産性などということは全く意に介しませんでした。
周囲はそれを惜しがりましたが、吉二にとって版画は金銭を得る手段ではなく、
良くすれたものを展覧会に出品すると、あとは知人に譲ってしまうのがほとんど。
こうした執着のなさには、彼の生来の人並み外れた潔癖性も影響していたようです。
制作はあくまで本業の合間で、多くの人がその手際良い仕事ぶりや、
表具師として黙々と働く姿を記憶しています。
昭和25年冬、肺炎を患い、翌年入院。その後6年におよぶ病棟での生活を余儀なくされます。 入院中も制作は続けましたが、もともと鋭敏な神経の持ち主であった吉二は、 幻聴や幻覚など、次第に精神を病むようになっていきました。 吉二の作品は温和で素朴、時にユーモラスなものもありましたが、 病気が進んだ頃の「河童」の連作は、黒々とした画面が暗く寂しい印象を与えています。 晩年には恩地孝四郎を思わせる抽象作品を試みて、なお盛んな表現意欲を見せていましたが、 昭和32年4月3日、自殺。 その後約20年間は、吉二の名はほとんど忘れられていました。 しかし、ようやく昭和51年、親しかった人々が所蔵作品を持ち寄って遺作展を開催。 独特な自我世界を追求した、岩手における昭和前期の代表的木版画家として、 再評価を受けることになりました。 |