三本柳さんさ踊り |
踊りの形態は、丸い円の右回りの輪踊り。
手と足を上下に振りナンバに歩く基本の動きと、しっかりと大地を踏みしめ、
沈み込んで浮き上がるという独特の跳躍と回転がある。
花笠が廻り、5色の腰帯が綺麗に開くように踊る。目は上げた方の手先に集中。
着物(浴衣)は短めに着て踊りやすくしているが、激しく踊っても決して肌をあらわに見せないのが特徴。
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羽場さんさ踊り |
踊りの種類は歩み太鼓に始まり、基本的な五拍子のほかに、数種の田植え踊りくずしと神楽くずし、
そして長者の山くずし、はやし舞くずし、礼踊り等多彩な種目が多く、変化に富んで興味深い内容である。
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黒川さんさ踊り |
他の多くのさんさ踊りが、三ツ石神社伝説を由来とするのとは異なり、関東武士の戦勝祈願の踊りが原点。
見た目には軽やかに演じられるが、腰帯が地面に触れるほど腰を低くした姿勢と体のひねり、
手首の柔軟な使い方など躍動感あふれる振りが特徴。
戦前までは芸の流出を避けるため、一家の長男にしか伝えなかったが、
昭和43年に復活してから広く住民に広がり、現在は長男に限らず幅広く伝承されている。
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城内さんさ踊り |
この踊りは藩政時代に大ケ生城主が祖先の霊をなぐさめ、豊作祈願をするとともに、
住民の親睦を図るために、当時最も盛んであった三本柳さんさ踊りから教えをうけて、
ここに植えつけたものといわれている。
行列の際は、歩き太鼓の調べによって庭に入り、笛や太鼓の調べによって庭に入り、
笛や太鼓の調子や掛け声で踊りながら、輪を作っていく。
古風な流れの回向歌も入り、拍子にのって静かに、あるいは激しく踊られる。
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下久根さんさ踊り |
踊りの庭にはやぐらを設けず、太鼓打ちが踊りの輪に交わって拍子をとり、
全員が囃子詞をうたう形式で、もとは夜の7時から夜明けまで踊り明かす慣習であった。
大正7年に原敬総裁就任後初の帰郷に当たっては、原家より招かれ原邸宅前で総裁に披露した。
昭和15年には高峰秀子の主演映画「馬」へ出演し、踊りの撮影地となった本宮の大宮神社周辺は、
大変な人出であったことが語り継がれている。
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乙部さんさ踊り |
基本のさんさ踊りを中心に、取り入れられている踊りである。
中心の部分に色々な踊り方が加わっており、20数種類の踊り方を組み入れている。
見どころは激しい踊りぶりで、体を前後左右に動かし、腰は低くし、肩を充分に左右に振り、
首を左右に手の方向に動かす為に、ひと踊りしただけでも汗をかくほどである。
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大宮さんさ踊り |
大宮甚句(くずし踊りの一種)は大宮独自の踊りである。初めかがみこんで、
両の手を下方でくるくると巻き、続いて立ち上がって後方へ投げるような振り。
片手を腰に当てて飛び、あるいは釣瓶を上げるような手の振りは、
何かの労働を意味したものか「ホラ」の掛声で手を振って連続して跳ねる。
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北山さんさ踊り |
北山が現在伝えている祝福芸に「サイトリ舞」というものがある。
北山のサイトリ舞は、将軍徳川家康から南部利直公に下賜の「拝領差取御鉄砲」の故事に因む踊りと伝えられ、
模擬の鉄砲を持って踊る独自の伝承である。
「さいとり舞くずし」では、サイトリ舞の拍子で踊り子一同が開扇して踊る。
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山岸さんさ踊り |
太鼓は他の踊り組より一回り大きいものを使っている。
古い所作を残す踊りで、軽快にして変化に富みつつ極めて格調が高く、
尺八寸の太鼓から響き渡る迫力に、昔、御国入りの藩主も長旅の疲れを忘れ、
「サァサ踊れ、サァサ踊れ」と囃されたものだと伝えられている。
また、歴代太夫は、古来の型の伝承に心血を注ぎ、
いたずらに改良することは決して許さなかったため、各舞の全ての由来も今に伝わっている。
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門さんさ踊り |
明治大正時代は門外不出で、家の跡取の長男のみ教えられたとのことである。
男性ばかりの踊りのため非常に勇ましく活発な踊りで、
踊りの始まるお盆近くになると練習を見物に近隣から多くの若者達が集まってきたとのことである。
門さんさ踊りの「通り太鼓」の唄の文句は普通のサンサ節だが、独特な節まわしで他には例がない。
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庄ケ畑さんさ踊り |
昔からの伝承を崩さずに、ステージの時も輪踊りを行っている。
演目の中で囃子舞(竹の子舞)は必ず踊る。
又、「生姜こう(しょうがこう)」という演目があり、
生姜こうという娘を嫁にくれてよかったという意味で
うたわれている。手をたたいて踊るのが特長である。
庄ケ畑甚句踊りもみどころだと思われる。
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猪去地区さんさ踊り |
もともと太田地区にははっきりした踊り組というものはなく、
地区一般が古くからさんさ踊りに親しんでいて、お盆のお寺とか、
鎮守の氏神さまのお祭りで若者組が太鼓を叩き、
これを合図に地区民大勢が自発的に集まってきて踊るという慣習であった。
昭和35年に青年会の有志で同好会を結成。
名称を山間地で沢水が清く豊かなところから「清流」とした。
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上厨川さんさ踊り |
昭和19年に下閉伊郡川井村田代から上厨川に嫁いできた丹野キンさん(大正11年生)が、
田代のさんさ踊りを皆に伝えたのが今の上厨川のさんさ踊りである。
キンさんの話では、以前田代では念仏剣舞とさんさ踊り組は一緒の組になって盆の夜を踊り明かす慣習で、
焚き火を囲んで交互に繰り返し踊ったという。
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安庭さんさ踊り |
東安庭のさんさ踊りは、他の地域の踊りに比べてテンポが緩やかなため、
踊りにアラが目立ち易いがこれを乗り越えて踊り上手になるのだといわれている。
踊り上手というのは総じて姿勢が良く背を丸くしないこと。
また手の高さが自分の目の高さにあるように、手の指は広げず親指を手の平に折り曲げておくなど、
踊りを美しく見せる基本としての心配りが大切とされている。
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東中野町さんさ踊り |
初代庭元は吉田孫助で、明治の初め頃隣村の旧見前村から伝えられて百年以上になるといわれている。
同氏は後に中野村の村議会議長などを務めた村の有力者で、
自ら七軒丁から芸人を招いて自宅土蔵の中で囃子舞を習い、
特に木挽き舞を得意とした声の良い人であった。
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太田さんさ踊り |
七色の帯(赤・黄・桃・紫・水色・黄緑・白)をまとい、太鼓は強く打ち、
更に反転するバチさばきを特徴とし、踊りは柔らかな上下の動きが出色である。
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沢目さんさ踊り |
沢目さんさ踊は大正末期,地元の荒屋八郎が滝沢方面のさんさ踊りを見て,動きが速く身のこなしが細やかな踊りにひきつけられ,習い覚えて沢目の人達に教えたものと云われる。現在は「山の神くずし」など18演目が伝承されており,曲調は盛岡地域のさんさと似ているが,「手合わせさんさ」など独自のリズムも見られる。演目数は多く,独自のものが殆どで,太鼓の口拍子がそのまま演目名となっているものもある。「集まりさんさ」や「手合わせさんさ」などに見られる,繊細な手の振りや上体のしなりなど,他のさんさにみられない芸態を遺した芸能として特色がある。 |
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