橋本 八百二


橋本八百二 プロフィール
橋本八百二・はしもとやおじ(1903-1979)

岩手県紫波町生まれ。盛岡農学校、東京美術学校西洋画科卒。 1930年から帝展連続特選。1947年県議初当選、後に県議会議長、県観光連盟会長を歴任。 1966年日展入選。1975年盛岡橋本美術館完成。


八百二に絵を教えたのは尋常小学校4年のときに担任となった、 後に萬鐵五郎と交友を結ぶ洋画家、大川英八。 八百二は親戚である大川にその後ずっと絵の手ほどきを受け、 画家の道へ進むきっかけとなっています。 東京美術学校在学中は、 作品を次々に展覧会に出品しては賞をさらう、展覧会荒らしを楽しんでいました。 この頃の絵は赤系統の色調で、萬の影響を思わせる作品も見られます。 同じ頃、展覧会で活躍していた女子画学生、原子はなと知り合い、卒業後結婚。 夫婦で帝展入選を続けて話題となりました。 昭和11年、東京の自宅に夫婦で橋本絵画研究所を開設しますが、時代は戦争へと向かいます。 多くの実力派画家と同様、橋本夫妻も従軍画家として南支、仏印などに派遣されました。

戦後、故郷紫波郡日詰町に転居。 翌年には県議選に当選、以後12年にわたって県議、さらに県議会議長もつとめ、 県立美術工芸学校創設などの芸術振興のほか、 八幡平、陸中海岸の国立公園指定に尽力し県の観光発展にも貢献。 多忙ななかでも絵筆は放さず、郷土の風景を正攻法の油絵、 骨太のがっしりとした作品として数多く描いています。 昭和34年議員生活を終えた八百二は、新しい画題を求めてヨーロッパへ渡ります。 帰国後に開催した展覧会では、印象派への回帰を思わせるような新しい画風を展開、 画家としての復活を果たしました。 昭和40年からは岩手県内における美術館建設運動を進めていましたが、実現の道は遠く、 ついに自分で橋本美術館の創設にとりかかったのでした。八百二は美術館完成から4年後の昭和54年、76歳で亡くなりましたが、 美術館にはその後も画友やその遺族から作品が寄せられ、 独自の展示には八百二色が生かされていました(美術館は2001年閉館)。





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