盛岡劇場物語

東北初の近代的演劇専用劇場の誕生
旧盛岡劇場
旧盛岡劇場

旧盛岡劇場内部
旧盛岡劇場内部
盛岡劇場は大正2年9月、 舞台芸能に強い関心を持つ有志の出資により、新馬町(現・松尾町)に開館。 設計は東京駅、また旧盛岡銀行盛岡信用金庫などの設計も手がけた辰野・葛西建築事務所。 東京帝国劇場から遅れることわずか2年、東北で初めての近代的演劇専用劇場の誕生でした。 名称に「劇場」とつけたのも、当時としては大変珍しく、 盛岡市民の芝居に寄せる情熱と、文化意識の高さがうかがわれます。 こけら落としは7代目松本幸四郎一座が出演し、評判を呼びました。 宮沢賢治も、 花巻からチャップリンの映画や少女歌劇などを見に通いつめたといいます。 歌舞伎、演劇、活動写真、音楽界など多彩な芸術活動が繰り広げられましたが、 戦争や建物の老朽化などで徐々に使用されなくなり、閉鎖同然になっていきました。
「谷村文化センター」として
昭和32年7月、芝居好きの谷村貞治が盛岡劇場の再建に取組み、 全面改装後「谷村文化センター」として再スタート。 日舞の発表会、新劇公演をはじめ講演会、 文士劇など、 さまざまな催しの会場となりました。 ところが使用料が高かったことや、テレビの普及などで利用客は年々減少。 さらに昭和43年の谷村の死去により、文化の復興を願って灯された劇場の灯は12年目の秋に消えてしまいました。 谷村文化センターは廃屋として野ざらしの状態が続き、 昭和58年、詳細な建築図面などを作成した後に解体。 「旧盛岡劇場・谷村文化センターお別れ会」では、地元民らが踊り、 演奏などで舞台最後の賑わいを再現、大正2年の完成以来70年の歩みを懐かしみました。 谷村文化センター
谷村文化センター

盛岡芸妓の温習会
盛岡芸妓の温習会
復活盛岡劇場
新盛岡劇場
新盛岡劇場

こけら落とし公演
新盛岡劇場こけら落とし公演
旧盛岡劇場解体後、もともと演劇活動がさかんな盛岡のこと、 徐々に市民から盛岡劇場復活の気運が盛り上がってきました。 昭和61年、市は市制100周年の記念事業の一つとして劇場の再建を決め、 ついに平成2年、同じ場所に新しい盛岡劇場がよみがえりました。 舞台の床を上下に移動できる大迫りや音響反射板、仮設の本花道など、 本格的な公演に対応したメインホール。 新しい表現にも開かれた劇場をという市民の要望に応え、実験演劇、ジャズ、ロックを想定して壁面は黒、 平土間のどこに舞台を設定してもよいタウンホール。 舞台芸術のための専門ホールがほしい、という市民の要望に応えるつくりです。 こけら落とし公演は9代目松本幸四郎。その後、多くの劇団が盛岡劇場で公演しています。 新盛岡劇場は「演劇の広場づくり推進事業」 をはじめとするさまざまな活動を展開しています。 盛岡の演劇史を語る上で欠かせない盛岡劇場は、 これからもその舞台となっていくことでしょう。

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