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竣工当時の旧第九十銀行本店本館
     「竣工当時の旧第九十銀行本店本館」
    盛岡市肴町 永卯所蔵(撮影:唐たけし写真館)

 第九十銀行は、明治11年(1878)、地元資本による盛岡初の銀行として、旧十三日町に誕生しました。南部藩士の株主94名、資本金10万円での設立でした。
 そして明治43年(1910)12月、第九十銀行本店本館(現:もりおか啄木・賢治青春館)が旧呉服町の現在地に建てられます。 設計は盛岡出身の若き設計技師、横濱勉(よこはまつとむ1878-1960)です。

東京駅や日本銀行を設計した、西洋建築の第一人者である辰野金吾と、地元出身の葛西萬治設計による、赤レンガの盛岡銀行(現:岩手銀行中ノ橋支店)よりも、第九十銀行は約5ヶ月早く竣工しています。

 中津川のたもとにそびえ立ち、明治の洋風建築を象徴し威風堂々たる構えを見せてくれる盛岡銀行に対し、第九十銀行は、19世紀末の大正期の黎明を告げ新たな息吹を感じさせてくれる、時代を先取りしたスタイルです。

 設計者の横濱勉は、啄木や賢治と同じ盛岡中学出身、東京帝国大学建築学科を卒業。東京市の建築技師を経て、司法省の技師となりました。 彼は、その若い感性を最大限に活かし、第九十銀行の外観と営業室をロマネスクリバイバル式、その他の諸室をセセッション式として、当時の欧州の自由な建築運動を、いち早くこの建物に反映させています。

 当時の銀行建築においては、営業室が吹き抜けであることが原則。それに対して第九十銀行の営業室は1階部分のみで、2階部分に「総会室」を設けているのが、大きな特徴です。コミュニティバンク(巨大銀行に対し、地域企業の生命線となるコンパクトな銀行)という概念を象徴するかのような、株主が集う場の「総会室」は、精神性においても後に続く「大正デモクラシィ」の先駆の象徴とも言えましょう。


建物の外観が醸しだす優美な姿


盛岡啄木賢治青春館屋根

 それは、ドイツ風ロマネスク様式(11-12世紀)を汲んで、各所にちりばめられた意匠が伝えてくれるものです。

 スレートと銅板葺きのドーマー窓(換気口)を持ち、四方から中央の避雷針に向かって寄せた尖り屋根。釉薬を掛けて艶やかに焼き上げられた、黄褐色の化粧煉瓦。 1階正面や2階窓のアーチ・コーナーに配された、重厚さと斬新さを漂わす割肌の盛岡産花崗岩。正面から見ると、アシンメトリーに配置され、縦のシンプルなラインが際立つ鎧戸。

 その佇まいは、さながら上品さが匂い立つ新しい時代の淑女のよう。若き横濱勉が情熱を傾け郷里盛岡に遺した、現存する唯一の作品です。

盛岡啄木賢治青春館屋根

 後年、所有者の変遷に伴いながら金融企業として営業を行ってきたものの、平成4年より閉館。平成11年、盛岡市が「盛岡快適観光空間整備事業」の対象に位置付けて保存活用策を探り、改修工事を経て、平成14年11月に、「もりおか啄木・賢治青春館」の誕生となりました。

 平成16年7月には、明治期の銀行建築でありながら大正・昭和初期の特徴を示す、先駆的で独特なデザインの価値が認められ、国の重要文化財に指定されました。

 これは県内3番目の近代建築物の重文指定に当るものでした。


郷土が生んだ偉人、石川啄木と宮沢賢治。


盛岡啄木賢治青春館鎧戸

 年齢差10歳のふたりは、非常に多感な青春時代のそれぞれの約10年を、ここ盛岡で過ごしています。

 親元を離れ進学した盛岡中学。彼らの胸には、どれだけの希望がつまっていたのでしょう。多くの友と交流した学生時代、時には学校を抜け出して、近くの岩手公園(現:盛岡城跡公園)で本を読みふけったりも。

 すぐそばを流れる清流・中津川沿いで、この地に古くから伝わる「チャグチャグ馬コ」も見ていれば、電灯が街を照らし始める様子も、次々と近代建築が建てられる様子も目の当たりにしているはず。

 彼らの瑞々しい青春時代と、近代化に向けて盛岡の街が輝き出す時代が重なり合う 「もりおか啄木・賢治青春館」。どうぞ、ゆったりとお楽しみ下さい。