宮沢賢治と盛岡hr
明治29年
(1896年)

8月27日 岩手県稗貫郡里川口(現花巻市)に誕生。父は政次郎、母はイチ。

明治36年
(1903年)
川口尋常高等小学校入学。
明治39年
(1906年)
鉱物採集に熱中。
明治42年
(1909年)
受験のため母と盛岡市紺屋町三島屋に宿泊。盛岡中学校入学。父に伴われて寄宿舎・自疆寮に入る。
招魂社(現・盛岡八幡宮)参拝。
明治43年
(1910年)

植物採集岩手登山隊に参加。

初めて岩手山に登る。

明治44年
(1911年)
小岩井農場へ遠足。
大正元年
(1912年)
仙台方面修学旅行。
(狐禅寺から川蒸気船で石巻に至り初めて海を見る)。
大正2年
(1913年)
舎監排斥運動で寮を追われ、清養院へ下宿。北海道修学旅行。(函館~小樽~札幌)
大正3年
(1914年)
盛岡中学校卒業。(第28回生)
岩手病院に入院。(5月中旬退院)
大正4年
(1915年)
盛岡高等農林学校入学。(農学科第二部)寄宿舎に入る。(土曜午後、日曜日は盛岡郊外を散策)
大正5年
(1916年)
関西方面修学旅行で初めて上京。
大正6年
(1917年)
下の橋際の玉井郷方家に弟清六と下宿。
同人誌「アザリア」創刊。
大正7年
(1918年)
盛岡高等農林学校卒業・研究生となる。
童話を書き、弟妹に聞かせる。
大正9年
(1920年)
盛岡高等農林学校研究生修了。
大正10年
(1921年)
突然上京。
花巻に戻り、稗貫農学校(県立花巻農学校の前身)教諭となる。
大正11年
(1922年)
心象スケッチ「くらかけの雪」「小岩井農場」などを書く。妹トシ死去。

大正12年
(1923年)

北海道・樺太旅行に出発。
大正13年
(1924年)
詩集『春と修羅』出版。イーハトヴ童話集『注文の多い料理店』出版。
大正14年
(1925年)
森佐一編集『貌』、草野心平編集『銅鑼』の同人となる。
大正15年
(1925年)
花巻農学校を退職し、花巻市下根子桜で農耕自炊の生活を始める。羅須地人協会を設立。
昭和3年
(1928年)
急性肺炎のため自宅療養。
昭和6年
(1930年)
東北砕石工場技師となる。
「雨ニモマケズ」を書く。
昭和7年
(1932年)
童話「グスコーブドリの伝記」発表。
昭和8年
(1933年)

病床で童話や詩の推稿を続ける。9月21日37歳 午後1時30分逝去。

父への遺言により国譯妙法蓮華経を知友に贈る。

宮沢賢治     宮沢賢治ブロンズ像

 風となって空を駈け抜け、野に咲く小さな花に寄り添い、星となって銀河に在り、硬質な石の姿で地中深く光り輝くような宮沢賢治。果てしなく透明な世界を内包する賢治は、父・政次郎と母・イチの間に花巻の商家に生まれ、厳格に育てられました。

 啄木より11年遅れて盛岡尋常中学校(後の盛岡中学校)に進学した賢治は、鉱物採集や岩手山登山を楽しみ、啄木に憧れ短歌の制作にも勤しみました。盛岡市北山にある願教寺で行われた「仏教夏期講習会」で、島地大等の法話を聞き大きな感銘を受けたことは、その後の彼の道しるべとなったようです。

 日本初の盛岡高等農林学校(現:岩手大学農学部)には首席で入学。全国から集まった級友達と刺激しあいながら地質学・土壌学を学び、主任教授関豊太郎の薫陶を受けました。
報恩時への参禅や願教寺での講話体験、友人保阪嘉内らとの同人誌『アザリア』発行など、非常に濃密な青春時代を、この盛岡で送っています。

卒業後の賢治は、音楽や芝居など広く芸術に目を向け、宇宙や宗教、そして自己との深い対話を重ねていきます。大正13年(1924)4月、「心象スケッチ」と賢治自身が呼ぶ詩集『春と修羅』を発刊。この作品は唯一生前に刊行された詩集です。また、同年12月には、賢治自ら名付けた民芸店「光原社」から、生前に発行された唯一の童話集『注文の多い料理店』も出版されています。

その一方、貧しい生活を送る農民に心を寄せ、郷里の花巻に「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」を設立。音楽への造詣も深かった彼は農民芸術の普及に勤しみ、病をおして農事指導に奔走しました。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」―いつの時でも大いなる自然と生命の尊さを歌い、世界全体の平和を願った賢治。「ドリームランド」と呼んで愛した岩手は、永遠の理想郷であるイーハトーブそのものだったのでしょう。

宮沢賢治ゆかりのスポット

あこがれ

岩手大学農学部付属農業教育資料館     詳細情報はこちら

盛岡高等農林学校は、わが国初の高等農林学校として明治35年に創設されました。学生も全国各地から集まり、優秀な農業学徒を輩出しましたが、中でも大正7年卒業の 宮沢賢治は有名です。 旧本館は、明治45年に着工、大正元年に完成しました。明治期に設置された国立の専門学校の中心施設のうち、現存する数少ない遺構のひとつで、国の重要文化財に指定されています。現在は賢治に関する資料を多数展示する教育資料館として、一般公開しています。 昭和24年からは岩手大学農学部となり、現在では800人余の学生が学んでいます。農学部内には植物園があり、市民の憩いの場として親しまれています。

あこがれ

材木町界隈     詳細情報はこちら

材木町商店街の街路は石畳が敷かれ宮沢賢治 とその作品にちなんだ6つのモニュメントが並び、独特の雰囲気をかもし出しています。 この材木町のメインストリートを「いーはとーぶアベニュー」と呼んでいます。 一説では「イーハトーブ」とは「岩手」をエスペラント風に発音したもので、 岩手の雄大な自然と賢治の想像力が溶けあってできた理想郷のことと考えられています。


あこがれ

願教寺     詳細情報はこちら

願教寺(がんきょうじ)は盛岡中学時代に宮沢賢治が、仏教の勉強をするために訪れたお寺です。 25世島地黙雷(しまじもくらい)は、日本近代仏教の先覚者で、 26世島地大等(しまじだいとう)は多数の名著を著述し、学僧として高名でした。賢治が真に仏教に目覚めたのは、中学3年の時に浄土真宗の願教寺で開かれた夏季仏教講習会に参加したころでした。以来、毎年参加して住職で仏教学者の島地大等の法話に聞き入りました。


あこがれ

医大詩碑     詳細情報はこちら

1914年(大正3)盛岡中学卒業の年、 宮沢賢治はかねてから患っていた鼻炎の手術をうけるために岩手病院(現在の岩手医科大学付属病院)に1か月ほど入院しました。憂うつな入院生活のなか、看護婦に恋心を抱きます。といっても、何かがあったというわけでは ありません。看護婦が賢治の手首をとって10秒間、脈拍を測る。それだけの関係です。しかし、賢治は真剣でした。相手の気持ちを確かめるどころか、自分の恋心すら打ち明けていないというのに、父親に彼女と結婚したいと願い出て、まだ若すぎると一喝されます。賢治のせつない片思いの初恋でした。岩手医科大学の入り口横に詩碑があります。

あこがれ

清養院     詳細情報はこちら

清養院(せいよういん)は宮沢賢治 が盛岡中学時代に新舎監排斥運動で退寮を命じられて、下宿をしていたお寺です。 もっとも、排斥といっても内容はいかにも子供じみたもの。 舎監の部屋の明かりを消したり、二階の廊下の床を踏み鳴らしたりといった、 いやがらせ程度だったのですが、 事態を重く見た学校側は4年生と5年生全員に退寮処分を言い渡しました。 現在、知客寮と呼ばれている12畳半の部屋で3カ月の間下宿していたと伝えられていますが、 詳細は不詳です。清養院の山門向かって右には「天気塔」が安置されています。 近年、山門前の「天気塔」が宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の原点だという説を唱えている賢治研究者もいます。

その他・宮沢賢治の文学碑